1. なぜ偏見が生まれるのか?

「若いのにしっかりしているね。」

「やっぱり営業だからおしゃべりが得意なんでしょ。」

「関西人なのにつまんないね。」

 

‥はい、それアウト。

職場や学校、TVなどメディアで繰り返し耳にする「ステレオタイプ」や「無意識の偏見」、「差別」。

決して一部の人だけの問題ではない。

誰もが陥りやすい心理の仕組みに根ざしている。

それにしても「誰もが陥る」のは一体なぜなのか?

その背景には人類がたどった進化の道筋がある。

 

偏見が単なる悪意の発露などであれば、ことは単純だったかもしれない。

しかし本当は、私たちの脳が進化の過程で、生存のために効率的に情報を処理しようとバージョンアップする過程で生まれた自然な反応なのである。

つまり、心理学の視点から見ればそれは人類共通の思考のクセなのだ。

 

 

 

偏見とは何か──心理学が示す基本概念

偏見とは、特定の集団や個人に対して、十分な根拠がないままに抱かれる固定的な見方や評価のことである。

心理学的には「ステレオタイプ」と密接に関係するが、両者は厳密には異なった概念である。

ステレオタイプが「知識や信念の枠組み」であるのに対し、偏見はそれに基づいた「感情的反応」や「態度」を含む。

 

例えば「家事は女性がするもの」というステレオタイプ。

のび太のママもサザエさんも星飛雄馬の姉も、そしてムーミンママさえも、みな家の中ではエプロン付けて(ムーミンママは外でも)家事一切を引き受けている。

テレビドラマもCMも、教科書に出てくる家庭風景も然り。

そんな社会で育つ私たちはやがてある種のステレオタイプを内面化する。

その上で物事を判断し意見を表明する時に「偏見」が姿を現す。

 

「そんなこと言ったって専業主夫より専業主婦の方が圧倒的に多いし、主に女性が家事を担ってきたのは事実だろう」と言う人がいるかも知れない。

たしかに日本では、「男性は仕事、女性は家庭」の規範が長く根付いてきた(おそらく欧米でも)。今はその是非自体は問わない。

重要なのは、一般論を個別の事象に当てはめる危険性を理解することだ。

「女性は家事の細かいことを担ってきたから、この女性も細かいことに気付く人だろう(であるべきだ)」という認識を出発点にすると、これはもう立派な偏見である。

 

なぜ人は偏見を持ってしまうのか。

そこには人間の思考の効率性に関わる脳の仕組みが関わってくる。

私たちの脳は膨大な情報を瞬時に処理するため、物事をカテゴリーに分け、一般化して判断する傾向を持っている。

その結果として、日常生活の中で、冷静に後から考えれば「なんでそんな差別を?」と思うような言動をとってしまうのである。

「若者は責任感がない」、「女性は感情的だ」、「男ならもっと根性見せろ」などなど。

根拠に乏しいこのような一般化は、得てして無意識に発されがちだ。

 

こうした偏見は往々にして個人の悪意に由来するものではない。

それは人間に普遍的な思考のクセであり、だからこそ心理学の重要な研究対象となってきた。

それにしてもなぜこのようなクセ普遍的に人類は持ってしまったのか?

そこには人類進化の歴史が深く関わっている。

 

 

 

偏見の進化論的起源

偏見は、進化心理学的に見るとどうやらそれは単に「偶発的に生起する誤った考え」などではない。

生存戦略の一部として形成されてきたと考えられるのである。

 

太古の昔、それまでの樹上生活からサバンナに降り立ち地上生活に移った人類の祖先。

100人程度の集団生活をしながら、食料を求めて移住生活をしていた。

牙も脚力も、厚い外皮も持ち合わせない非力なご先祖たち。

人類同士でも限られた資源をめぐる競争の日々、未知の集団との接触はまさに生死に直結する。

そのような環境で生きていたのだ。

「自分たち(内集団)」と「外の集団(外集団)」を素早く区別する能力が養われるのは必然だった、危険を回避し安全を確保するために。

 

進化の過程でこうして「内集団バイアス」や「外集団への不信感」が脳に組み込まれた、というのが進化心理学の今日の達成である。

 

ここまで来て、「最近の外国人排斥の機運、この辺がリンクしているのでは?」と思ったあなたは鋭い。

関連性は大いにあるのだが、今はとりあえず先に進むとしよう。

 

みなさんご存じシミュラクラ現象。

雲が像や猫に見えたりしたことはないだろうか?

駅のホームで電車を待っていると、やって来る電車がなんとなく顔っぽく見えたり、とか。

筆者は自宅の風呂場でもトイレでも、常に目の前の「誰か」に見つめられている。

 

10年くらい前にNHKで放映された超常現象検証番組。

多数の幽霊目撃報告があるイギリスの古城での調査隊の活動を報じていた。

中でも、目撃情報が集中したある場所について、それが壁のシミの見誤りであると研究者たちの見解が一致した。

歴史を感じさせる建物、古いがゆえの薄暗い内部。

そしてなにより、それらの目撃談は戦時中その城に停留した兵士たちによるものだ。

独特の心理状態が、余計に誤認識を生みやすくさせたとも考えられる。

 

なぜ壁の模様に「顔」を見出してしまうのか?

サバンナに降り立った非力な人類は、草むらに潜む猛獣を瞬時に見分けなければならなかった。

その事情に対して歴史的に獲得された「瞬時顔認識システム」が、誤作動を起こしているのだ。

 

すぐそばに捕食者がいるかも知れないのに、冷静に状況を分析し、相手の意図見極める余裕などない。

そこで私たちの脳は、詳細な検討よりも『素早い見極め』を優先する方向に進化し、顔らしきものはとりあえず顔と認識するようになったのである。

つまり、できるだけ少ない情報で即断を下すための“ショートカット”を発達させたのだ。

脳の情報処理には膨大なエネルギーが求められる一方で、消費できるブドウ糖や脳の容量には限りがある、という事情ももちろんある。

 

 

 

現代に生きるサバンナの残像

必然性があって進化したこうした適応も、現代社会ではしばしば誤作動の原因となる。

人間社会の変化に遺伝子レベルでの進化が追い付かないからだ。

この名残で現代人の脳も、複雑な情報を効率的に処理するため、しばしばショートカットを使う。

この合理化プロセスは便利な反面、誤った一般化や過剰な単純化を生む。

早さというメリットと引き換えに、私たちはそのエラーしやすさを受け入れなければならない。

外見や出身地の違いはよそ者(=外集団にルーツを持つ人)認定の条件となる。

厳しい自然環境や猛獣と闘いつつ、乏しい資源を奪い合う時代の「よそ者感」、その残骸は現代人の私たちの中に確かに根付いている。

しかし外見・出身地だけで相手を判断することは、とりわけ複雑で多様な現代社会に適合するはずもなく、不当な差別を生み出す要因となる。

ステレオタイプはこうして形成され、繰り返しの社会的学習によって強化されるのだ。

「特定の職業=特定の性格」などといった思い込みのたぐいがメディアや教育、日常会話を通じて広がり、やがて個人の判断を左右する。

 

また、感情も偏見を固める大きな要因となる。

ある特定の人との否定的経験が、同じ属性を持つ集団全体への否定的感情へと拡大することも少なくない。

好きな歌手・スポーツ選手が発する言葉は肯定的に受け止めてしまう。

「差別はなぜ起きるのか」という問いに対して、進化心理学は「脳が人類保全のために設計された結果」という答えを与える。

偏見は元々非合理なものなのではなく、人間の歴史的な生存の副産物として、ある合理性をもって生まれたものなのだ。

このメカニズムを理解することは、偏見を和らげる第一歩でもある。

人間は脳の仕組みに縛られる存在だが、意識的な学習や訓練によってその影響を最小化することは可能である。

この可能性にこそ希望を持ちたいのである。

 

 

 

社会的アイデンティティ理論が明かす集団心理

「社会的アイデンティティ理論」は、偏見の社会的側面を理解するうえで欠かせない理論的枠組みだ。

この理論によれば、人は自分を集団の一員として定義する傾向があり、集団への帰属意識が強まると「内集団」を好意的に評価すると同時に「外集団」を低く見る傾向が生まれる。

これが「内集団バイアス」であり、差別や対立の根源である。

その意味では、この理論の内容を理解するのに河合悠祐の戸田市議会での発言、「日本人は世界一優秀な民族だ」は参考になるであろう。

学校でのクラス対抗意識や、企業間の競争、さらには国際関係に至るまで、同じ心理メカニズムが働く。

社会的アイデンティティ理論は「敵対心」が自然に発生する構造を明らかにすると同時に、差別は個人の意識の問題にとどまらないことを示している。

 

現代社会においては、SNS上の対立や政治的分断もこの理論で説明できる。

人は自分の所属する集団を肯定することで自尊心を高めつつ、その裏返しとして他者への否定的態度を強める。「差別はなぜ起きるのか」という問いに、心理学と社会学の橋渡しをするのがこの理論であり、偏見の克服を考える上で重要な視座を提供している。

 

ついでに言うと、オリンピックなどスポーツの国際競技において自国の選手を応援するのはよいとしても、小学校の運動会でオンデマンドに囲った紅組・白組くらいに和気あいあいと応援すればよいくらいに私など思うのだが、現実はそうもいかない、というのはこの理論からも納得である。

 

 

 

  1. ステレオタイプを克服するには

「私たちに与えられた武器は、思考であり言語であり論理です。この貧弱な武器で、なんとか戦っていくほかはない存在です。」(高田明典『「私」のための現代思想』)

 

「差別は確かに良くない。しかし感情論ではどうにもならないのでは?」

それはそうかも知れない。

職場や学校、社会のあらゆる場面で差別や偏見は繰り返し問題になる。

しかし、道徳的に「差別は悪い」と言うだけで解決につながるほどことは単純ではない。

差別防止のカギは科学思考にある、と私は考える。

私たちの脳がどのように情報を処理し、無意識のうちに偏見を生み出してしまうのかをリアルに理解することで、具体的な対策が見えてくるのだ。

 

まず確認したい。

完全に偏見をなくすことはまず不可能である。

前述のような人類史的背景があることを考えれば、それはやむを得ないことかも知れない。

そこは認識したうえで、しかし意識的な努力によってその影響を弱めることは可能だし、現代に生きる私たちは是非ともそこをこそ目指したい。

 

 

 

異文化の日常に接する実験

他者の立場に立つ訓練は、共感トレーニングや視点取得法などと呼ばれる。

自分が主観に捉われているのではないか、とメタ的視点で疑いを持つことは有効な手立ての一つである。

同じものを他者目線で捉えると、違った景色が見えるかも知れない。

 

米・メリーランド大学の心理学者・ゲルファンド教授らのグループは、アメリカ人とパキスタン人が互いの文化圏の日記を読む実験を行った。

まずそれぞれの文化圏10人ずつ(平均年齢24歳)に、一週間にわたって日記を書いてもらう。

次にそれとは別のそれぞれ100人の被験者(平均年齢21歳)に、一週間毎日その日記を読んでもらう、という実験である。

結果をざっくりまとめると、まず自分と同じ文化圏の人の日記を読んだ場合、相手文化に対する態度はほとんど変わらなかった。

次に相手文化の日記を読んだ場合には偏見が弱まり、相手をより人間的で自分たちに近い存在として見るようになった、と言う。

 

日記の内容はと言えば、パキスタン人の方はモスクで祈り、大学で退屈な一日を過ごし、兄とFAカップ準決勝(サッカー)の話題で盛り上がったという話、アメリカ人の方は朝遅く起き、犬を公園に連れて行き、夜にインターン(卒業後に備えた実務体験)に行くなどといった、きわめて日常的な出来事ばかりだった。

 

彼女の研究によれば、多くの人がアメリカ社会が緩い(loose)なもの、「いつも半裸で過ごし朝食にビールを飲む」といった生活様式を創造する一方、パキスタン社会については規則が多く罰則も多い厳格なものと考えている。

しかしこれらの見方は、誇張やネガティブな部分ばかりを強調するテレビや映画の影響の反映であり、その国が本来も強い面を反映したものではないのだ。

そのようなステレオタイプを減らす有効な手立てが興隆の機会を増やすことであり、日記はその手段を提供する、ということだ。

日記には正直な気持ちや日々の平凡な出来事が書かれている。

結局のところ自分たちは変わらない、思っていたほどには違っていないんだということが分かるのである。

ゲルファンド教授らは今、リベラル派と保守派の間にある偏見の低減にこの日記の手法が使えるかどうか、研究を進めている。

 

 

 

無意識の偏見を意識化

無意識の偏見に対処する第一歩は、自分は偏見を持っているかも知れないとまずは思うこと。

自分の無意識の偏見に気づくことだ。

 

時間がある時に、以下に示す無意識のバイアス度測定を試していただきたい。

これは正確にはImplici Association Testと呼ばれるもので、ハーバード大学・バナージ教授のグループが開発した、あなたの心の中に潜む無意識の偏見の度合いを測るテストだ。

クイズは二者択一式で課される問題自体は簡単なものだが、例え正答であっても答えを出す時間まで計測され、その早さが勘案される。

この点がこの評価法の卓越したところである。

日本語で受けられるので、気楽にやってみて欲しい。

https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/takeatest.html

 

私はジェンダーに関する項目のテストを受け、「男性と科学、ならびに女性と人文学に対するわずかな連合」という結果を得た。

つまり人文学よりは科学と男性、科学よりは人文学と女性をより関連付けているよ、と。

全問正解だったが答える早さに差が出て、見抜かれてしまった。

こうして偉そうにものを書いている筆者にもわずかとは言え偏見がある、ということだ。

ジェンダー以外にも「国家」、「セクシャリティ」、「人種」、「体重」、「年齢」、「肌の色」という項目がある。

ぜひチャレンジしてみて欲しい。

 

 

 

脳の筋トレ

日常の会話を振り返る習慣を持つことで、自分がどんなステレオタイプに影響されやすいかを知ることができる。

女性の上司に怒られた男性部下、「女性だから感情的なんだろう」と心の中でつぶやく。

こういう言葉が無意識に出る人は要注意!

ここで振り返って考えられるかどうかは大きな分かれ道だ。

 

認知行動療法では、このように自動的に浮かぶ思考を修正するトレーニングが有効とされる。

日常会話や判断において、頭に浮かんだ(あるいは発した)言葉やイメージを意識する。

そしてそれを書き留める。

今の場合は「女性だから感情的だろう」などと。

 

次に、その自動思考が本当に事実に基づいているかを検討する。

「感情的な男性もいるのでは?」

「結論を得るには、感情を定量化し性別で取った統計が必要では?」

「感情の豊かさは必ずしも能力と関係ないのでは?

などと、いろいろ怪しい点が出てくるもの。

 

その上で思考を自動的なものから再構成されたものへバージョンアップする。

「人は個人差が大きい。性別で決めつけるのは不正確だ」

「相手を一人の人間として、その行動を見て判断しよう」

などなど。

 

このような書き出し、検証、再構成の繰り返しにより、脳に新たな思考回路が生まれ強化されるのだ。

運動で特定部位の筋肉を鍛えるのに似ていることに気付くだろう。

そう、これは「脳の筋トレ」だ。

 

このトレーニングの面白いところは、単に偏見や差別を和らげるだけでなく、思考全般の柔軟性を高める点にある。

無意識に出てきた思考(自動思考)をそのまま鵜呑みにせず、「本当にそうだろうか?」と検証する習慣は、仕事や学習、さらには人間関係においても有効だ。

 

また、繰り返し練習することで、以前なら自動的に「決めつけ」で反応していた場面でも、立ち止まって考える余地が生まれやすくなる。

ホンモノの筋トレにおいて普段使ってなかった筋肉が少しずつ使えるようになるのに似ている。

最初はぎこちなくても、やがて自然にその筋肉を使えるようになる。

脳の思考回路も、鍛えれば鍛えるほどスムーズに作動するようになるのだ。

 

そしてこの「脳の筋トレ」、仲間や同僚と共有することでさらなる効果が期待できる。

例えば、会議や雑談の中で「今の発言、ちょっと偏見が入っていたかもしれない」と気づいたら、それをユーモアを交えて指摘し合う。

互いの自動思考を見直す機会が増えれば、集団全体の思考の質も向上するかもしれない。

 

さらに言えば、個人の努力まかせにさせない社会全体としての取り組みも求められるだろう。

ダイバーシティ研修や制度設計、教育やメディアによる啓発活動は、個人だけでは克服できない構造的な差別を和らげる手段となり得る。

偏見克服は個人の努力と社会的支援の両輪で進める必要があるのだ。

 

多様性を認める柔軟性で民主主義を守る

重要なのは、「偏見を完全になくす」のを目指すことではない。

偏見が生じたときに修正できる柔軟性を持つことだ。

脳が進化の過程で効率性を優先するように設計されている以上、瞬時の思い込み自体をゼロにはできない。

しかし、その思考を再点検し、より公正で合理的な判断に組み替える力は、後天的にいくらでも鍛えられる。

 

自動思考の見直しは、対人関係に限らず、仕事上の意思決定や学習、さらには自己理解にまで影響を及ぼす。

誤った前提や思い込みに基づいて判断してしまうのは、職場の評価や戦略選択、日常の人間関係でもしばしば問題を引き起こす。

逆に言えば、偏見修正のための「脳の筋トレ」を続けることは、複雑な課題に冷静に向き合う力を養うことにつながる。

 

私たちの認識を誤らせるのは、進化論的な思考のクセという内的要因にとどまらない。

私たちはメディアやSNSを通して日々、様々な思惑の絡んだ膨大な誤情報に晒されている。

簡単に情報発信ができ、また出回っている情報を簡単にシェアできるSNSはデマの温床となり、またそこには、自分にとって居心地は良いが情報的に偏ったチェンバーも容易に形成される。

この脳の筋トレを通じて私たちは、脳のオートフォーカスが自動的に目の前の被写体に焦点を合わせてしまうのを修正し、もっと本質的な遠景や背景に自分の意志で焦点を合わせる妙技を手にすることができる。

それは「偏見・差別防止のための実践」として、そして「よりよく生きるための汎用スキル」、冷静に問題の本質を見定める洞察のまなざしを与えてくれるだろう。