民主集中制と科学的思考

種市孝

「民主集中制」と聞いて、あなたはどのようなイメージを持つでしょうか。上意下達、異論を許さない体制、それとも非科学的で時代遅れな組織原理?とくに現代日本では、民主集中制はしばしば否定的な文脈で語られがちです。今あらためて問いたい。民主集中制とは、そもそもどのような思考様式・意思決定プロセスなのでしょうか。

仮説検証は政治思想ではなく科学的方法論

企業経営の現場で仮説を立ててそれを検証する過程は普通に行われています。例えば楽天。その社屋のいたるところに”Five Principles for Success”(「成功の5つのコンセプト」)という標語が掲げられています。その一つが「仮説→実行→検証→仕組化」。成功の原則としてこの考え方が明示的に掲示されています。

この道筋が重要なのは、なにも企業経営に限ったことではありません。科学研究の現場でも、経験やデータをもとに仮説を立て、それを検証し、結果に応じて仮説を修正するという循環は日常的に行われています。というより、それは私たち人類がよりマシな真理に近づくための、現状手にしている唯一の科学的思考のプロセスなのです。ここで重要なのは、最初から正しい答えを持つ、あるいはそれを期待することではなく、「間違いを情報として次に生かす」修正能力にあります。

ベン図で理解する「帰納」と「演繹」

「ベン図」をご存じでしょうか?中学の数学で「集合」を習った時に出てきた、集合とその関連を視覚的に表した図です(図1)。円は「ある性質を持つものの集まり(集合)」を表し、円の中にある点は「その性質を持つ具体的な事例(要素)」を表します。例えば犬好きの人を図中の点で表すと、それらの点をまとめて囲んだ円が「犬派」という集合です。

図1 ベン図

重要なのは、一般的にこの円は最初から自然界に描かれているわけではない、ということ。私たちは複数の具体的な事例(点)を見比べ、共通する特徴がある(この人たちは犬が好きだ、とか)と判断した結果として、あとから円を描いているのです。

この「点を集めて円を描く」作業が帰納的推論。帰納的推論とは、個別の経験や事例という「点」を集め、そこから一般的な仮説や方針、法則という「円」を描く作業です。この円はあくまで仮説であり、暫定的なものにすぎません。新しい点が現れれば、円は拡張されたり形を変えたり、場合によっては分割される必要があります。

たとえば、「病院に頻繁に通っている人たちは病気である」という円を描いたとします。しかし病院勤務の人やお見舞いに通う人という新たな点が現れれば、その円は描き直されなければなりません。帰納とは常に不完全で、だからこそ更新可能な推論です。正しい帰納とは、このように円が仮説であることを常に意識し、修正可能なものとして扱う姿勢を含んでいます。

一方、演繹的推論とは、いったん設定された円を前提として、新たに現れた点がその円に含まれるかどうかを判断する過程です。演繹過程は、前提(今手にしているベン図)が正しいかぎりにおいては、必然的に正しい結論を導き出します。ただし演繹そのものは、前提そのものを問い直す力を持ちません。前提を更新する役割はあくまで帰納的推論にあります。

正しい帰納・演繹からの逸脱が思い込みを生む

帰納の段階で起きやすい逸脱は、限られた事例だけを見て、円を早急に確定させてしまうこと。また演繹の段階で、円そのものを疑わなくなり、円に合わない点を例外や異常として排除し始めること。思い込みやステレオタイプ、偏見はここから生まれます。

例えばある社会集団(○○人、△△職など)をG、ある性質(几帳面、攻撃的、論理的など)をPとします。Gに属する数人の事例を見て、その人たちがたまたまPの性質を持っていたとします。その時に「集合Gは集合Pに含まれる」、つまりGに属する人は必ずPの性質をもつ、と思ったとします。この考えはいわゆるステレオタイプですが、仮説として扱うのであればまだよし。しかしこの集合GとPの関係を固定化し、それを前提として以後の判断を演繹で行い始めた時、偏見が生まれます。問題は円を描くこと自体ではありません。円を仮説として扱わなくなることこそが、推論の破綻を生むのです。

現実の政治に目を向けると、特定の集団に対する粗雑な一般化や、反例が提示されても修正されない主張を繰り返す人がいます。これは価値観の違いというより、帰納と演繹の使い方が非科学的であることに起因します。少数の点から描いた円を固定し、その円を前提に世界を演繹的に解釈し続ける、この構造が偏見を再生産するのです。

民主集中制の意義・それを活かす条件

民主集中制を思考方法として捉えると、その構造は明確になります。「民主」の側面は、現場の多様な経験や実践を集約し、帰納的に方針を仮説として形成する段階です。「集中」の側面は、その方針を前提として統一的に行動し、演繹的に現実との整合性を検証する段階に対応します。

ここで重要なのは、演繹的検証のためには円が一定期間安定している必要があるという点。方針決定後に、各人が勝手に円を描き直してしまえば、何が元の方針と整合し何が齟齬を示しているのかが分からなくなります。その結果検証が不正確となり、組織としての学習が停滞します。したがって、党方針が一旦決まった以上は、個人的な賛否を一旦保留し統一行動をとることが必要なのです。それは、検証条件を成立させるための前提です。

このように民主集中制は、特定の政治思想ではなく、組織が経験を学習へと変換するための方法論として理解すべきものです。そしてこの「組織が」という点が重要です。よく「共産党が政権をとったら社会的規範として国民が統制される」などと危惧する声があります。歴史上「共産主義」を名乗った国々が、民主主義的な運営から逸脱し一党独裁とその下での統制を軸とした社会だったことが、イメージとして念頭にあるのでしょう。もちろんそのようなことはあってはならないことです。重要なのは、綱領と規約に合意し目標・目的を持って活動する党員を組織した政党、それと一般社会とは峻別されるべき、ということ。この点は忘れてはなりません。

そして党内にあっては、帰納的推論過程が形骸化し、ベン図における円が固定化し修正不能になったときに問題が生じます。科学的方針決めの過程としての民主集中制が正しく運用されているかどうか、それが本質的に重要な点と言えます。観念を固定化するのか仮説を更新し続けるのか、その分水嶺は正しく帰納と演繹の推論過程を遂行するかどうかにかかっているのです。