JST(科学技術振興機構)理事長(当時)の濱口道成は、JSTが提供する科学技術情報提供Webサイト:Science Portalで「幸せな生活を、科学技術で実現する」と題する記事を寄稿。

その中で科学技術が歴史的に果たしてきた役割、特に負の部分にもしっかりと向き合い、人類の幸福をいかに実現するかについて語り、「科学の面から研究者が果たすべき役割について目を向けよう」と提言しています(※)。

科学の発展が人類にもたらした利益だけでなく、負の部分についてもしっかり認識すること、それは大事なことです。

科学技術と「幸福」の相克

それでは「正の部分」についてはどうでしょうか?

科学の成果を技術に活かし社会の中で活用していくには、利害対立の調整や資金面のやりくり、政治的決断など様々な段階での問題をクリアする必要があります。

そこには計上できる予算との兼ね合い、経済効果、環境への影響、市民生活への影響など多種多様な問題が絡みます。

とても科学だけの問題としてくくれるようなものではありません。

そういう意味では、ポジティブにもネガティブにもなり得る科学研究の成果活用の行方を、科学者任せにするのは危険です。

かと言って、結果を出した後のことに科学者が全く無頓着で良い、という訳でもありません。

科学者とて社会の中で生き、社会に影響を与えて生きる社会人。

原爆作っといて「あと知らね」とはなりません、当然ながら。

理想と現実のギャップ:産業界との連携の限界

その上で気になることが1つ。

濱口は、自身が名古屋大学の総長だった時に「人類幸福のため」に取り組んだ事業として、食・健康・環境・社会システムと教育をテーマにアジアにおける幸福(Well-Being)実現に取り組んだこと、そして「産業界との連携」を勧めたことを挙げます。

人類幸福を実現するために、どのような研究開発が必要かを産業界と共に考えた、と。

企業理念というキーワードが頭をよぎりました。

色んな企業のHPを覗くと、多くの場合その企業の「理念」が書いてあります。

世の中をどうしたいのか、どのような未来を理想像として描いているのか、なんの為に仕事をしているのかといったことを、抽象的な言葉で描出しています。

その内容は、もっともだと首肯できる内容がほとんど、当り前ですが。

表現が抽象的だからなおさらですね。

しかし私は、抽象的な理想論にあまり捉われ過ぎると評価を誤る、と思うのです。

平たく言えば、口先できれいごとなぞなんぼでも言えるのです。

それは対象が個人でも会社でも、どんな集団・団体でも。

評価の基準は実際に何をやっているか、何をやって来たのか、つまりその人・その団体の歴史ではないでしょうか。

企業は利潤を追求するという第一義的な目的を持っています。

それは逃れられない実情であり、資本主義社会では仕方のないこと。

従業員の生活も守らなくてはなりませんからね、きれいごとだけでは済みません。

でも濱口氏の言うように人類幸福のためにどのような研究開発ができるかを考えるとなると、企業を存続させるために短期的な利益を求めなければいけない産業界との共同では、そこにおのずと限界が生じてくる。

利益の上がる見込みのない研究に企業は金を出さない、出せないのです。

HPに表示される企業理念だけとると、どこの企業も人類幸福に沿いそう、とっても。

けれども「儲けなければ立ち行かない」呪縛が、場合によっては足かせにもなる。

原発事故に見る、科学と社会の断絶

東日本大震災での原発事故は、地元に多大なる被害をもたらしました。

果たして上述の足かせが、無理強いや過度な急がせにつながらなかったのでしょうか。

原発政策を推し進める政府と東電、それと地元経済界や自治体、住民との意思疎通は十分行われていたのか。

政治家と企業と住民の間に各分野の科学者の専門知を加えた多面的なコミュニケーションは取れていたのか。

補助金や就職などのニンジン政策が、必要なコミュニケーションにとって代わることはなかったか。

これらの検討は引き続きこれからもなされるべきでしょう。

基礎研究の価値・その不確実性

くり返しになりますが、企業の属性は長期的視野に立った地道な研究にとっても足かせとなり得ます。

比較的短期的な利益を求める企業との共同研究は、特に「何に役立つかわからない(将来何かに役立つかもしれない)」長期的ビジョンに立った基礎研究には不向きです。

今は国立大学も法人化され、科研費は競合化され、短期スパンでの研究成果をより求められるようになっています。

科学技術の土台を構成する基礎分野の弱体化と人材流出は、いずれ科学技術そのものの脆弱化となって跳ね返ってくるでしょう。

濱口の寄稿に話を戻すと、ここには「男性のみのチームと男女含むチームの共同発明の特許の経済かつ比較」というグラフが載っています。

食料品・繊維・化学など産業16分野で、男性のみのチームに比べ混合チームの方が特許の競争力が強いことをデータで示すもの。

ダイバーシティがイノベーションにつながることの論拠としています。

その主張自体は良い。

しかしこのデータもまた、産業や企業などに着目し経済効果に特化した彼の論調を象徴するものとなっています。

特許も大事だし産業の興隆も大事ですが、そこにフォーカスした科学だけが科学ではありません。

20世紀初頭、アインシュタインが相対論を発表した折、それが提示する、私たちの日常感覚から乖離した世界観は早くから注目を集めました。

動いている人の時間は遅くなるとか、動いている物体の長さが縮むだとか。

相対論を理解できるのは世界でも数人だけ、などと言われたものです。

しかし現在はどうか。

相対論は決して一部のマニア的研究者だけの共有物ではありません。

物理学科の学生にとっては必修科目だし、GPS技術は相対論効果を考慮してその精度を維持するなど私たちの日常生活に深く溶け込んだものとなっています。

もちろんアインシュタイン自身は、経済効果やら日常生活に役に立つ技術やらを目指して研究したわけではありません。

社会に役に立つかどうかという観点で言うと、基礎科学研究は、少なくとも研究開始当初は明確に答えを出せない側面が確かにあります。

答えを出せないというより、出そうとしていない。

そもそもそこをモチベーションとしていないのです。

お気楽と言われるかもしれませんが、専門家なりの個人的興味があり、それをエネルギーとして研究を進めているのです。

どの研究が将来の技術革新に結びつくかは誰にも、研究している当の本人にも分かりません。

逆に言うと、どの研究もその可能性がある。

だからこそ、興味に基づく基礎研究に携わる研究者が多くいて、多様なテーマで研究がなされることが重要なのです。

広い裾野と多様性が生む科学の未来

少年野球や高校野球を通じて、日本における野球の競技人口のすそ野はとても広い。
 
野球の世界的な舞台で日本チーム・日本人が活躍できる背景にはそういう事情がある。
 
科学研究も似たようなものです。
 
もちろん基礎研究は、「世間のお目こぼし」(税金・社会資本)をもらって行われているという背景も。
 
しかしだからといって、「○○に役に立つ」が明白なものだけを進めるというのでは、私はそのような社会はいずれしぼんでしまう、と思うのです。

(※)幸せな生活を、科学技術で実現する(サイエンスウィンドウ、Science Portal)
https://scienceportal.jst.go.jp/gateway/sciencewindow/20200416_w01/index.html
最終更新日:2020年4月16日
最終確認日:2025年4月8日

エセ科学バスター 種市孝