宇宙の始まりに対する説明を、人類は手にすることは可能でしょうか?

そもそも人類はなぜ「宇宙の始まり」を知りたがるのでしょう?

単に好奇心からでしょうか?

ま、簡単にそういう言い方もできるかも知れません。

しかしここでは、その好奇心とやらの分解能を上げてみたいのです。

すると、人間の認知がそもそも時間と因果性に強く依存した構造をもっているから、と推し測ることができます。

すべての出来事には原因がある。

何かが「今ここにある」なら、それには始まりがあるはずだ──私たちはそう考えずにはいられない。

進化心理学は私たちの心理の背後にあるこのような動力学を、進化論的に裏付けています。

原因があっての結果たればこそ、そこに法則性を見出し自らの生存に活かせる、というわけ。

然してこの「始まりへの欲求」は、宇宙論における問いとして現れるだけでなく、宗教の教義や神話の形を取って繰り返し語られてきました。

神が”Let there be light.”(「光よ、あれ」)と言ったとかね、別に英語じゃないだろうけど。

天地創造、カオスからの秩序、神々による創世──こうした物語は、自然界の出来事に意味と起源を与えることで、私たち人類のあり様を知る安心感を与える役割を果たしてきました。

つまり、「始まり」を問うことは、自己の位置づけを確かめる営みでもあるのです。

もちろんこれは私たち一人一人が漠然と思案する「存在論」にも通じます。

「自分はどこから来たのか」とか「つまるところ人生とは何だ」とか。

別に物理や哲学専攻でなくたって誰しも考えたことはあるんじゃないですか、そういうの。

要するに宇宙全体の「始まり」が説明できるかどうかは、単に宇宙にまつわる興味深い話にとどまるものではなく、私たち自身の存在理由、人生の意味をめぐる問いでもあるのです。

1.現代物理学における「始まり」のモデル

それではまず、科学の出しているとりあえずの解に目を向けて見ましょう。

現代物理学において「宇宙の始まり」を説明する最も広く受け入れられているモデル、それがビッグバンモデル

聞いたことありますよね?

宇宙が約138億年前、極めて高温・高密度の一点から急激に膨張を始めたとする説であり、宇宙の背景放射や銀河の後退速度など、多くの支持する観測結果が得られている考え方です。

ビッグバンの瞬間を思い浮かべる際、どうしても私たちは何かが爆発しているようなイメージを持ちます。

テレビの教養番組でも、真っ暗闇の空間で急に何かが爆発するようなCGでビッグバンを説明したりします。

しかし本来ビッグバンとは、「何かが空間の中で爆発した」というようなものではありません。

そこで空間そのものが誕生し、膨張しているのです。

そしてこの時、時間も空間とともに始まります

これを時刻ゼロの特異点と呼びますが、そこでは密度も温度も無限大になり、現行理論は破綻します。

この破綻をどう乗り越えるか、それが目下の理論物理学の壮大なテーマの1つとなっています。

それではこの特異点、時刻t=0以前はどうなっていたと考えられるのでしょう?

でも、ちょっと待ってくださいよ。

この「t=0以前」という表現、これ自体が矛盾を孕んでいるのに気づきましたか?

時間がt=0から始まったとするなら、それ以前という概念は物理的に意味を持たないはずです。

時間はそこで始まったのであり、それ「以前」というタイミングには時間も存在しなかったのだから。

観測可能性についてはどうでしょうか?

私たちが目で捉えられる可視光を含めた電磁波、これを使った観測ではビッグバン以後38万年後の時点まで見ることができ、そして実際に精度良く観測されています。

しかし、それより昔の宇宙を見ることは原理的に不可能です。

それは、この時点より前は宇宙が高温すぎて、束縛されない電子が自由に飛び交っているから。

そんな自由電子は電磁波を散乱してしまうので、私たちの目に届くころにはすっかり空間的な情報を失っています。

これは曇りガラスを通して景色を眺めるのに似ています。

要するに全体がぼやけてしまうのです。

それ以前を観測する手段として重力観測が注目されていますが、その観測技術はまだまだヨチヨチ歩きの状態。

現状では宇宙初期についての詳細な知見を得るほどのレベルには達していません。

今後の発展に期待、ですね。

まとめるなら、現代物理学は宇宙の歴史を極めて初期まで遡ることができてはいるが、その「最初の瞬間」については、なおも記述不能な領域が存在している、と言えます。

あ、ちょっと細かいこと言うと、「ビッグバン」という用語を科学者は宇宙の始まりという意味では用いません。

学問的な意味でのビッグバンとは宇宙の誕生そのものではなく、本当の意味での宇宙の誕生(宇宙の開闢(かいびゃく)なんて言ったりします)の後、「インフレーション」という爆発的な膨張過程を経て、一旦温度ゼロ近辺まで低温になった宇宙が、相転移を起こして高温状態になった時に始まる、とされています。

でも専門家でも一般向けの講演などでは、分かりやすく「宇宙の誕生=ビッグバン」という図式でしゃべったりするので、ちょっとここはまぎわらしいですね。

2.「始まり」以前を求めて

ビッグバン理論が「始まり」を示唆する一方で、現代物理の最前線では、「そもそも始まりという概念自体が不要ではないか」という視点が現れています。

代表例が量子重力理論におけるWheeler–DeWitt方程式。

これは宇宙全体の波動関数を記述しますが、なんとここには時間の変数が登場しません。

つまり、宇宙の根源的記述には時間が存在しない可能性があるのです。

また、VilenkinやHartle–Hawkingらは「無からの宇宙創成」というアイディアを提唱しています。

特にHartleとHawkingの「無境界仮説」では、宇宙の始まりは時間と空間に区別はなく、また私たちが空間の中を自由に動けるように、時間に沿っても未来にも過去にも自由に動ける状態だった、とされています。

ここで言う時間とは実数ではなく虚数。

これが実数になった瞬間に、時間に向きが生じて宇宙の膨張が始まったのだそう。

何だか本当によくわかりませんが、この理論では虚数の時間を考えることにより宇宙の時間的「始まり」を存在しないものとします。

つまり「始まり以前」を考えることを巧妙に回避したのです。

物理的であると同時に哲学的な転換をももたらす理論ですね。

さらに、循環宇宙モデル(宇宙が無限に膨張・収縮を繰り返す)や、マルチバース理論ブレーン宇宙論などでは、我々の宇宙が何らかのより大きな構造の一部として位置づけられ、そこでは「始まり」という一点を特権化する必要がそもそもありません。

こうした理論は、“始まり”という人間的発想の限界を問い直す試みでもあるのです。

3.「説明可能」とは?

ところで、私たちが「宇宙の始まり」を説明しようとする時、無意識のうちに因果関係に基づく説明を求めています。

つまり、何かが「起こる」ためには時間の流れが必要であり、原因が結果を生むという構造が前提とされるのです。

しかし、ここに大きな逆説があります。

なぜなら、先ほどもちょっと言いましたが「宇宙の始まり」とは時間そのものの起点であり、因果関係が成立する「時間の枠組み」自体が、まさに問題の対象だからです。

このことは、哲学で言う「カテゴリーミステイク(分類誤認)」の可能性を示唆します。

「色は何キロメートルですか?」と問うことが無意味であるように、「時間の始まりの原因は何か?」という問いかけも不適切な形式である可能性があるのです。

だとすると、たとえ何らかの回答を与えたとしても、その説明のフレームそのものが対象としている「始まり」と論理的に相容れない?

しかしそれでも私たちは説明を求めてしまう。

なぜなら、人間の認知は時間と因果性を抜きにして世界を理解することができないから。

この認知的制約が、「始まり」を本質的に説明不能なものにしているのかも知れません。

余談ですが「意識」の理解も同様の困難さを持っているかも知れませんね。

物質たる脳からいかにして「意識」、つまり主観的体験の総体が生まれるのか、といういわゆるハードプロブレム。

私が提唱するPF理論では意識の源はPFO(Parasite Fermion Objects)ですが、これも物質なので問題の構造は同じです。

魂などの超自然的な概念に頼らない意識発生メカニズムの解明にもまた、理論上のなんらかのブレークスルーが必要でしょう。

4.「問いを変える」という選択

「宇宙の始まりは説明できるのか」という問いは、一見すると科学的な問題のように見えます。

しかしその核心に迫ると、そこには上述のように科学の射程を超えた哲学的問題が潜んでいます。

質問の形式についてちょっと考えてみましょう。

「なぜ○○が起きたのか?」と問うことと、「なぜ○○が存在するのか?」と問うことでは、質問の次元がまったく異なります。

後者は、物理法則や因果関係による説明を超えた、ある種の形而上学的な問いです。

重要なのは、説明には限界があるということです。

物理学は事象のパターンや構造を明らかにする力を持つが、「なぜ宇宙があるのか」「なぜ法則が成立するのか」には答えません。

それが科学の対象ではないことを認めるのだとすれば、次の一歩を踏み出すためには問いの形式そのものを見直す必要があります。

この意味で、より根源的で生産的な問いかけをもししようとするならそれは、「なぜ私たちは『始まり』の説明を欲するのか?」という認知論的アプローチになるのかも知れません。

私たちの知的欲望や認知構造が、説明を必要とする世界観を作り出しているとしたら、その「説明欲求」自体を説明することが、科学と哲学を架橋する次のステップとなります。

科学とは、世界を合理的に理解しようとする営みであり、可能な限りの説明を与えることを目指します。

しかし同時に、どこまでが説明可能で、どこからが説明の枠組み自体が崩れるかを明らかにすることも、科学のもう一つの役割と言えます。

とりわけ「宇宙の始まり」のような問いにおいては、その限界が如実に浮かび上がります。

「始まり」は完全に解明されるべき対象なのだろうか。

それは「永遠に問い続けるに値する問い」なのだろうか。

答えを得ること以上に問い続ける姿勢こそが科学の骨頂、とも言えます。

そういう意味ではこの「始まり」論は、私たちが知の旅をやめないための終わりなき出発点なのかもしれません。